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【逃亡中につき】 文/Yoshiko
今日も大変な1日だった。会社を出ると夕刻の風が冷たい。男は、おととい妻が押入れから引っ張り出してきた灰色のコートをはおって駅へと急いだ。駅前の商店街にさしかかったとき、うまそうな匂いにふと足を止めた。ヤキトリの匂いだ。彼の目の前で正面からのろのろとやってきた自転車に乗ったオバちゃんが、あわててブレーキをかける。「あっ、すみません」不器用に体をひねってそれをかわしつつ、男の足は匂いのやってくる方へと向いた。今日は、逃亡を決めこもうではないか。
「へい、らっしゃい」
ヤキトリ屋ののれんをくぐると、ハゲ頭に鉢巻をまいたオヤジが、せわしなさそうに狭いカウンターの中で動き回っていた。炭火にかけられたヤキトリが白い煙を出し、店の中はその煙の色と匂いで一杯だった。まるで昔から行きつけている場所のように、男は気軽にカウンター前の席に着いた。
「お客さん、なんにしますか」
オヤジは、忙しいながらも気を利かしてすぐに注文を聞きにきた。瓶ビール、と言おうとして顔を上げると、「美味い! ホッピー350円」と書かれたやや赤茶けた張り紙が目についた。
「ホッピー、もらおうか。それと、カシラ、ネギマ、レバを2本ずつ。全部タレでね」
ホッピーなど飲むのは何年ぶりだろうか。会社の連中とたまに行くチェーン店の居酒屋には置いていない。男は、学生時代の、まだ酒を覚え始めた時分のことを思い起こした。あの頃は、天井のすすけた、こじんまりとした居酒屋で、仲間と朝まで飲んだものだ。ホッピーの、ビールより少し淡い苦味を味わいながら、男の顔に知らずに笑みが浮かんだ。
ヤキトリを1本食べ終えて串を右脇にある串入れに放り込もうとした時、1つ席を空けて女がひとり、座っているのに気がついた。なかなかの美人だ。OLらしいいでたちで、年の頃は30手前といったところだろうか。今時めずらしく、長い髪をこじんまりと小さくまとめてアップにしている。いつから座っていたのだろう。俺が来た時にはいなかったはずだが。男は再びチラリと女を見遣った。すんなりと伸びた細い首は白く、少しかしげた風だ。一合徳利を前に、お猪口で日本酒をすすっている。連れはいないが、特に寂しそうな様子もなく、ゆったりと満足げだ。
大人の男というもの、ジロジロと女性を眺めたりするのは下品だ、などと心中で自分の臆病さに言い訳をしつつも、ホッピーのおかわりを頼む時や串を串入れに入れる時など、男はなにかにつけてチラチラと女を見遣った。女はそれに気づく様子はまるでない。ひとりで来てあれだけ落ち着いて飲んでいるということは、この店の常連だろうか。だが、その疑問をオヤジに聞いてみるのもなんだか勇気がいる。だいいち、こんな小さな店では本人に筒抜けだ。
ホッピーも3杯目をあけたとき、「よおし」と男は小さく独りごちた。彼女に声をかけてみよう。なに、酔った席だ、むこうだってそう邪険にはしないだろう。そう決心した途端、もよおした。まず用を足してからにしよう。トイレのドアを開きながら、女への最初の一言をふと思いついた。
「あなたも、逃亡中ですか?」
ちょっとキザだが、我ながらいいではないか。
意気込んで戻ってみると、女の姿はなかった。おもわず力が抜けた。
「あの、ここに今いた女の人は……」
「ああ、今さっき帰りましたよ。それにしても、いい女でしたねえ。ひとりで来て日本酒たあ、たいしたタマだ。それでいてすぱっと切り上げて帰るところなんざあ、立派、今日び男でもなかなかできませんよ」
気落ちしながらも、ホッピーをもう1杯飲んで店を出た。帰ってひと風呂浴びて寝るか……本日の逃亡、これにて終了。
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